福祉機器展フクテク展
今日は糸島福祉機器展「フクテク展」が健康福祉センターあごらで開催され、福祉やボランティアの団体や企業が出展しました。
私は防災士として一次救命に不可欠な胸骨圧迫(心臓マッサージ)の指導しました。
多くの方々が福祉に関わる様々な驚きや発見をして頂ければと思います。
南風公民館バスハイク案内
先月に引き続き南風公民館から依頼を受け、観光プランナーとして企画から実施まで担当しました。
校区内のシニアの方々が対象で、今回は総勢26名で実施の運びとなり、改めて糸島の魅力に触れて頂きました。
雷山観音は紅葉が最盛期を迎え、訪れた方々を魅了していました。
福ふくの里では、地域おこし協力隊の佐藤さんにご案内頂き、一味違ったお買い物を楽しんでもらいました。
特別メニューを作って頂きました浮岳茶寮では特製松花堂弁当とお抹茶を頂きました。
厳選の糸島食材の和食、贅沢です。
最後は糸島ハムでソーセージ作り体験を実施し、お土産にして頂きました。
第四子三女誕生
有難くも11月7日に我が家で4番目となる子どもが誕生しました。
子どもたちのために頑張らねばと思います。
糸島くるくるマーケット
前回に引き続き第12回糸島くるくるマーケットでも代表を務めることとなり、スタッフや出店者の協力のもと盛況のうちにイベントをおさめることができまそた。
晴天に恵まれた中に。たくさんの笑顔を見ることができたことは大変な喜びであり、私自身も笑顔で最初から最後まで過ごすことができました。
レトロカーミーティングも好評を博し、今後のさらなる展開が期待できます。
小城羊羹旅日記(文豪風)
小城羊羹旅日記
以前に地元を案内した団体から、日帰りの良い旅先がないか聞かれていたので、佐賀県の小城市を勧めていたところ、秋に案内する事となった。
全く有難い話で、主催事業を控えた時期であったり、その他暇なようで細々と雑務の多い我輩ではあるものの、頼られると悪い気はせぬたちだから快く引き受けた。勿論、仕事としてであるから本腰を入れねばならぬ。
さて、小城というと矢張り羊羹が有名で、九州はもとより全国にその名は轟くと聞く。しかるに翻って旅先としては存外地味な印象で、あまり人気の場所とも聞かぬ。小城の観光課職員が我が故郷の観光事業に着目し視察に訪れた時など、折角のご縁と小城に興味を持って何かと名物を尋ねたものの、首を傾げて当地には別段観光に資するもの無しとの回答で驚いた。(役場の人の名誉に関わる話なので附すが、謙遜の気持ちだろうから目くじらなどはご勘弁を)
しかるに、これもご縁と思い実際に訪れてみると、我輩は忽ちに小城に魅了されてしまった。小城という町はさほど大きくもない土地で、福岡からだと丁度良い半日旅行の場所だ。遠近の名所名物ある中で、我輩は江戸時代10万石に満たない小藩の城下町から発達したまちが殊の外興味を惹かれるのだが、近場では福岡藩支藩の秋月藩や大分の佐伯藩そして熊本の人吉藩、遠くにあっては新潟の村上藩などがある。
小城は肥前鍋島の佐賀藩の支藩として7万3千石の領地を持っていた。今の小城市の文化の土台はこの頃に醸成されたのではないか。
羊羹が有名ということでは、小城市中に20軒を超える老舗が立ち並び、また点在する。
我輩を喜ばせたのはそればかりでなく、酒蔵が2軒もあったことだ。小柳酒造と天山酒造。どちらもそれぞれ趣を異にして、そして良い酒を醸している。因みにほんの数粁離れた隣町でも大きな酒蔵があり、酒蔵巡りの観光としては随分と良いところである。
良い酒には、良い肴がなくてはならぬが、その前に景勝地を紹介したい。それは清水の滝である。全国各地に清流あり、名爆あり。そうした中にあって清水の滝は、直ぐ真下から落差75米の滝を仰ぎ見、感じる事ができる。その迫力と清冽なる神々しいまでの水分の恵みには自然と手が合わされる。滝の傍らには不動明王像の他大小の像が立ち並び、古くから信仰の場としても栄えた事が窺い知れる。
水の良いところに、美味いものの無いはずがないのである。この地は鯉料理が有名だ。清水の滝周辺には老舗の鯉料理屋が山の道沿いに軒を連ねている。鯉こくに、鯉の洗いに鯉づくしを堪能できる。滝や古刹の散策を先にするか、後にするかはその時の胃袋にきくとして是非滋養に富んだ鯉を賞味してもらいたい。
はてさて、小城の魅力をお伝えせんとつらつら書き散らしたもののまさに百聞は一見にしかずの言葉どおり彼の地に是非ともお立ち寄り頂きたいものだ。
そこで必ずや良い出会いがあるであろう。もし予想と違った展開があったとしても、それが旅の醍醐味である。
防人として
「一旦緩急あれば義勇公に奉仕以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」
明治23年10月30日、明治天皇が国民に示された教育勅語の一節です。終戦後にアメリカ占領下で禁止されるまで本邦における教育の根幹となりました。今読み返す時に、その文言は或いは難しく古臭く感じる方もいるかもしれませんが、当時にあって、また今日にあっても普遍的で世界に通用する中身となっています。
現職の自衛官ではない予備自衛官の私が、口幅ったく防人と申しますのは出過ぎた事かもしれませんが、民間人としてまた軍人として、終戦の日にあたり自身の考えを述べたいと思います。
先ずもって、アジア・太平洋戦争で命を懸けて日本国民を守らんと戦い英霊となった諸先輩方と、戦争により亡くなられた数多の人々の御霊安からんことをお祈り申し上げます。
連綿と続く日本の今があるのは全てご先祖様のお蔭だと思います。バトンを引き継いだ我々は、次世代に繋ぐ今を生きる日本人としてその役割を果たしていく事を改めて誓う日とするべきではないでしょうか。
今年は終戦の日を、霊山立山で迎えました。山頂から麓まで、お盆休みを利用した行楽客で賑わっています。戦後72年、終戦記念日を意識する事なく過ごす方が多いのも日本が平和である証といえます。それはまた素晴らしい事だと思います。
毎年、夏になるとテレビや新聞では終戦の特集が組まれ当時を検証する機会が訪れます。残念な事にアメリカ占領政策の影響が未だ強く根付いている事を思い知らされます。10年・20年前に比して格段に改善されたとはいえ、メディア上にあっては今尚捏造と虚構をもって我が国を不当に貶める反日工作が続いています。日本人の誇りを取り戻すために、国際社会にあって真っ当な国であるために、正しいことを訴え続ける事が大事です。
祖父は終戦時に陸軍少尉、その叔父は陸軍中将という血脈の故か、幼い頃は海軍艦艇に夢中であった私も陸上自衛隊の予備陸士長として国防を担っております。
戦争は相手があってのことですから、先の大戦と同じく自衛のために干戈を交えることは将来避け難いであろうというのが歴史に照らして考える事です。その時に愛する家族を、私を育んだ故郷と、お世話になった方々と、将来の日本を背負って立つ子どもたちを守りたいと思います。
それは軍人のみならず、あらゆる職業の方々が夫々の立場から行うことで、もし敗戦の憂き目にあえば、大切な人も家族も財産も自らの命も全て奪われる事を知らなければなりません。古今東西、現代にあってさえも痛ましい現実には、目を背けたくなるほど恐ろしいことではありますが、愛する家族を持つ身としては怯えて死を待たずして、防人として我が身を盾とするべく有事に備えています。
私の使命は、何か。
歴史を学べば、我が国を取り巻く環境と為すべきことが見えてきます。