職業ナカトリモチ

神と人を結ぶ神主さんを中執持といいます。 糸島・金沢を舞台に神社の奉仕、地元を案内するガイド・添乗員、予備自衛官・防災士などの様々な活動をしながら日々の事を綴るブログです。救命講習、 パソコンや進路指導、観光、郷土史や神話の各種講師業も行なっております。

葬式仏教を肯定する神道的アプローチ

「釈迦の教えと日本仏教との相違点の考察 〜神道の視点により葬式仏教を肯定的に再構築する〜」

 

我が国では特定の宗教を信奉する意識を持たない国民が多いが、実際の人生においては神道と仏教を中心とした宗教儀礼を行なっている。このことは、寧ろ当事者たる日本人よりも外国からの視点でしばしば指摘されるところであり、また一神教たるキリスト教徒を中心とする西洋諸国からは過去、奇異の目で見られたこともあった。多くの日本人は無宗教を自認しているものの、生誕から間もなく神社への初宮詣に始まりチャペルでの結婚式そして仏前での葬式を違和感なくこなしている。

こうした民族性は宗教面のみならず食文化や工学技術にも表れており、そこに日本人独特の世界観を見出すことができる。

しかしながら、そうした受容形態は時に本来の形を超えるだけではなく大きく変容し或いは痕跡を認めるのが難しい程に日本化されてしまうことがある。宗教面でいえば潜伏キリシタンの教義や日本仏教における世襲・妻帯・葬儀。食文化ではビーフシチューが肉じゃがになり、拉麺はラーメンになった。また工学技術では火縄銃の伝来からまもなく国産化・大量生産また改良化や、嘉永四年の黒船来航から百年を経ずしての世界最大戦艦大和の完成を見るなど、これらを民族の属性として見たときに模倣及び改良の特異性の下に大きな土台を感じずにはいられない。

その土台とは何か、それこそが日本を日本たらしめるものであり一語をもって説明できないが、確かに他の国家や民族と異なる独自性を見出すことができないか。

そうした中、今回その混ざり合って渾然一体となった日本の土台の精神面において大勢力たる神道と仏教を古代に遡って相違点を明確に分けることによって、日本仏教へ流入した日本の思想つまり神道の影響を考察するこで釈迦の教えとの相違を考察したい。

多くの日本人が神社と寺院の判別をつかない事を、現場の神職や僧侶より伺う機会があった。そしてそれが一千年に亘る神仏混淆によるものであり、明治政府の行政指導による神仏判然令やそれに伴う廃仏毀釈運動によって神社と寺院は明確に分たれたが、その影響は現代でも神社に仏像が安置されたり鳥居が立つ寺院を見つけたりすることとなって残っているという。そして面白いことには、普段の生活の中で神社の氏子や寺院の檀家も当事者たる神職や僧侶もそこに違和感を感じることなく日々を営んでいることである。これが他国であれば支離滅裂な姿に映るだろう。まして洗礼も受けずしてキリスト教の集会所(チャペル)で誓いの言葉を唱えて挙式を敢行する様は、真面目に宗教を信奉するものからすれば寧ろ神への冒涜と受け止められても致し方あるまい。

さてそうした事情のもとに日本仏教があるのだが、ここで釈迦の教えとの相違をもって批判したいのではない。そもそも釈迦入滅後の百年後には弟子らの教義分裂を見、最終的には居合わせた僧侶の意見を全て釈迦の教えとする大団円をみたのであったし、伝教の際にはChinaの思想が多分に影響され朝鮮を経て飛鳥時代に仏教が伝来した頃には少なからず釈迦の教えには本来無かったであろう教義も含まれていた。故に本論ではあくまで日本国内において仏教と認識されながらも実は本来日本独自のものであるエッセンスを見出す事を主眼とする。

そうしたことから今回は釈迦が説いたことよりも、釈迦が説かなかったことをクローズアップしてその相違点を探りたい。

やはり一番に挙げられるのは葬式ではないか。我々日本人は当然に死ぬと寺院で葬儀を営み、極楽浄土や天国また輪廻転生を思う。死ねば仏となるとは、多くの日本人が受容している価値観だが、初期仏教の教典に照らせば釈迦はそのようなことは説いていないと理解できる。ここに念のために擁護するには、釈迦は仏陀と呼称したが固有名詞ではなく普通名詞として用い、その前後にも覚った仏陀を語っていることから後世の僧侶が悟りを得て説いた他力本願を私は敢えて否定しない。

だが注目したいのは、現代社会において空気と同じように当然存在する仏教と葬式は本来一体のものではなく、寧ろ神道の思想が流入したものである。これは実際に仏壇に手を合わせる際に南無阿弥陀仏や般若心経を唱えたとしても、心に思うのは亡き父母やご先祖様であって、遺影を飾る仏間に勿論仏像やお題目は掲げられていても、そこにあるのは日本古来からの祖先崇拝の姿である。

現に釈迦は葬儀については当時大勢を誇るバラモン教に任せて、あくまで覚りを得ること解脱することを指導している。実際に釈迦の入滅後に行われた葬儀には当時のインド慣習たるバラモン教の思想によって在家信者によって営まれた。釈迦は日常の中で教えを信奉する在家を、不可分な存在ながらも修行僧グループの僧伽とは区別してみており、いわばパトロン或いはサポーターとしてみなしていたようであるから、僧侶が葬儀に携わる事を寧ろ否定していたと受け取ることが自然である。解釈は様々であり現に長い歴史と伝統を持って仏教が葬式を担っているのであるからそこを否定するのではなく、ここに日本の神道的な祖先崇拝を見出すのである。

このような影響に鑑みれば、本来出家したはずの僧侶が世襲しそのために妻帯することを批判するよりも、ここに日本人ならではの氏神信仰そして先祖を供養するという祭祀の姿がいつの間にか神道から日本の仏教へと移入したことへの興味深い事実を受け止め、改めて敬神崇仏の日本人としての私を認識するものである。

このように考察してみると、一見すれば無節操に思える日本人の宗教感が寧ろ一貫した民族の思想信仰の上に成り立ち、どのような宗教が入ってきても渾然一体となった日本教を形成してしまう事実をただただ興味深く思えるのである。

 

参考文献『原典で読む原始仏教の世界』

日常の如き非日常

幼き頃は喘息の気があり、一度咳き込めばいつ終わるとも知れぬ苦しさにほんの少し前の何でもなく過ごしていた咳とは無縁の日常を尊く思ったものです。そしてまた喉元を過ぎればそれらを忘れ日々を生きていました。

しかるに日常とはそのままの意味ながら、これは実は尊き尋常ならぬ日々であり、私の今の境遇もまた然りと認識しております。

 

概して、大切なものは失ってから気付くものであり当然に存在するものを掛け替えのない宝とは矢張り考え辛いものです。身近なものでは何でしょう。スマホですか?家族ですか?それとも職でしょうか…。

お蔭様で任地は暖冬にて、迎える初年の北国の心地は人情も気候もこの上なく暖かくこうして夏を越さんと無事に過ごしております。

故郷は遠くにありて思うものと申しますが、千粁を越えて帰省することなかなかに叶わず春の桜からこの方北陸を出ることもなく、かといって不自由なくでありますからご心配をお掛けする事の無いものの、家族に会えぬのは寂しく感じます。

未だ住民票は糸島にあり、単身赴任の形態で頑張っておりますが距離は自然と心も遠くなるようで、折々にそれに接する際に悲しく思います。段々に根無草のように何処の郷に腰を下ろしても余所者であり続けるのかと。無論、金沢は優しく私を包み込んでくれています。しかし安住の地が郷愁を忘れさせる訳もなく、休日なども一人で図書館に行くか川沿いを散歩するくらいですから哀れな気持ちになる事もしばしばです。

 

今回、漸くに選挙戦にてかかった費えの借金を完済しました。まだこれから政治活動中の借金を返す段階になりますが、私の一大目標であった選挙による借金返済は一つの区切りを見せたのです。例え死すとも必ず返すと意気込み糸島市議会議員選挙の落選後こそ苦しい思いをしていましたが、それでもこの大きな試練がまた自らを強くしそして人の優しさを強く意識できることに繋がったのだと感謝に絶えません。

有り難くも次回選挙に向けてご助言を頂きます。しかしまだ資金の目処も立っておりません。つくづく痛感したことは機を見ることに敏ならずんば果実を得ずという事です。何事も限界なく様々な方途にて挑戦する道はあるのでしょうが私は5年かけて練った政治活動そして選挙戦が悉く砕け散った事実から目を背けません。私は言うだけで何もしないで者を嫌っておりますから、互いに行動にて示し理解をしあいたいと存じます。

 

何気ない日々を守るのは国民であれば等しく担っている大事であり、まして成人男女に至ってはその責務重かつ大なることは言を待ちません。私は今、神主としてそして予備自衛官としてその任に当たっています。願わくば皆様の大切な日常が平穏なままに続きますように。

金沢最古のお宮に奉職しました

糸島に帰ってきて、8年を前に金沢に単身赴任することになりました。議員を志して6年半ついに区切りをつけました。断念とは言いたくないですが、再び糸島市議会議員を目指すことは先のこととなりました。もとより日本の為に地元で政治家とならんと思ったわけですのでどこにいても変わらないはずですが、矢張りたくさんの地元の方々に応援していただいていたことからすると正直悔しい思いです。しかしながら、現在金沢では多くのご厚情に恵まれともすれば寧ろ居心地よく感じるほどです。家族の苦しみを思えば、一体己の為してきたことはなんだったのか。嬉しい今であればこそ悲しくなります。

自分一人が困窮することも厭わず、天下国家の為に一命を擲つ覚悟は全く変わりませんが、私が守るべき一番の家族が塗炭の苦しみに長く耐える事に私自身が限界を感じました。私は生きて行く為に選択したのです。暖かく送り出してくださった方に感謝ですし、苦言を呈される方のお言葉も全く最もだと深く受け止めております。

今年度中は糸島・金沢の二重生活となっています。正直な話糸島での仕事は往復の交通費も回収できないほどの収入しか得られませんが、防衛の仕事と講師の仕事に区切りを付けてから金沢生活に臨みたいと思っています。

4ヶ月ぶりに帰郷

今年の山籠りそして諸々は長かったです。今まで長期不在の際もチラッと帰郷できてたんですが、今回はみっちり北陸にいました。

残雪厳しい山をアイゼン付けずに登り、すっかり紅葉の見頃の頃までいました。

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日本三霊山立山頂上で3ヶ月、麓に降りてから方々に挨拶や何やら行って、それから丹波の瞑想センターで釈迦の教えを学びにまたまたお籠り。6月の末から出発して10月の末に帰ってきました。

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今年も学ぶことたくさんあり、得難い経験もありました。常に前向いて生きてます。

天業奉戴

燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや

燕や雀のような小鳥が、大鳥の志を知るはずもないであろうという意味です。私はいつもそう思って逆境に立ち向かっています。

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令和の時代となりました。

 

振り返れば、昭和に生まれましたが物心ついて間も無くに平成の世となり、幼少期、少年期、青年期はその31年間に濃密に過ごしました。

多くの人に助けられながら、自分の研鑽した結果だと自負しながらも神社界で神社本庁そして伊勢神宮での奉務し、全国神社でのご奉仕を経験できたことは矢張り、自分の力だけでは無かったのだと今の境遇を思えば実感できます。

 

郷里に戻り、境内社を神社として広く遍く押し広めようと努力してまいりましたが、不足の事も多く、思うに任せぬ年月が瞬く間に過ぎ去りました。或いはテレビ取材や新聞にも掲載頂いた私の活動や神社の事も、移ろいゆく中にはすぐ忘れさられました。

地元への恩返しだと、地域で果たすべき役割をと、副業の仕事も制限して当たってまいりましたが、結局そ努力も虚しく定職につけとご助言を受けます。成る程、齢40を手前にしてまだ何とか登用の道もあるようで故郷を離れるならば神主としてまた自らスキル活かす場所もあるようです。しかし私は此処で活動する為に、不安定な収入にも甘んじ大道を宣揚するにいかにするべきかと模索してきたのです。

お蔭様で、神主として以外にも資格や能力を身につけそれを用いて講演や講義、業務に携わる事が出来ています。しかし神社の維持運営はもとより家族を養うにも不足している現状です。どうにかしたいと足掻いていますが、難しい日々を過ごしています。

 

恂にありがたいことには、日本三霊山立山頂上にて神主として夏季は集中してご奉仕する事ができ、糊口をしのぐ事ができております。精神修養にもこの絶界は適しており、怠惰に流れがちな日常とは全く違った場所で生活しています。

 

ここ数年来はずっと、釈迦の教えと聖徳太子の事跡を研究しており、山ではじっくりとその偉業に触れまた考える時間を持てています。私は学者ではありませんから、実践の為にまた多くの人々にその顕彰を行う為に学びそして伝えたいと思っています。

 

冒頭の言葉「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」とは、些か諸先輩や同朋対して不遜な心持ちもありますものの、かような辛い状況なればこそ強い気持ちで今を乗り越えようと自らを奮い立たせる言葉です。理解して頂けないのは己の力量不足によるものですが、並々ならぬ自惚れで護国を目指しておりますから、悔しい時はいつもそう思っています。また平野国臣の歌「我が胸の燃ゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山」は決して曲げる事の無い気持ち強固にしてくれるものです。

 

何故、かような日々を送るのか。それはまさに我が天命であろうと思います。人は其々に役割を担っており、それは神仏やその他の信仰にのみによらず集団の中で生きていく上で欠かせぬものです。

私は偶々今の境遇を得、国体を護持し今の世を平らかなるものとする為に尽力し、神武天皇以来の天業を奉戴する使命を受けております。この事は勿論私だけが特別な使命を帯びているといった選民の話では無く、皆等しく与えられたものです。其々が其々の立場で全うする。何も特別な職業や活動をする事が総てではありません。

しかし私は、今世をより良くそして次世代の為に努力を惜しめない。身は例え赤貧に喘ぐとも、或いは孤軍奮闘すると雖も諦めません。

客人はマレビトと訓む

同じ釜の飯を食うという言葉があります。寝食をともにするというのは、言い知れぬ親近感と共に、深い絆が結ばれるのだなと思います。

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夏の3ヶ月間、私は郷里より1000キロメートル以上も離れた越中富山の、更に3000メートルの高さに位置する雄山神社頂上峰本社にて奉仕しております。

富山にかくもご縁を頂くことになるとは思いもよらぬことで、伊勢に次いで第3の故郷と呼べるかもしれません。殆どが立山頂上の生活ですが(笑)

山の上では麓2社の雄山神社職員は本より、富山県下の神主や全国各地の様々な人と日々共同して大神様に仕えています。家族と変わらぬ距離で濃い時間を過ごしますので、下界に戻った後も親交が続き、また毎年夏に再会できるのが楽しみになります。

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そうした日々を過ごす中で、たまにお客人が来ます。誰かの友人であったり、また作業等で来られる業者の方であったり。何しろ雄大な景色を臨む場所とはいえ、行動範囲も人間も決まった単調な日々ですから、こうしたマレなる人の来訪を皆喜びます。空気の入れ替えであるとか、新しい空気が入ってくると表現していますが、有難い場所ながら長くいると、ともすれば鬱屈としてくる雰囲気を一変せしめるのがお客の存在です。昔々の、村に不意に現れる客もこうしたものだったのかと思い巡らしたりします。

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神社では信仰上の尊厳を維持する目的で、一部において普段一般に通用する言葉を避けて言い換えることがあります。

神社では基本的に、参拝者に対して「ありがとうございます」「お疲れ様」「お客様」を使いません。神社にお参りすることが、神社サイドで有難いとはおかしいという意味です。また同じ意味で疲れに来てるわけでもなく、神の客でもないので違う言い回しとなります。

特に「お客様」は、いかにも商売気があるように感じられるということで、若手の頃は厳しく指導されました。

勿論、その考えは全く正しいと思いますから私もそこにイチャモンをつける気は更々無いのですが、客人といえばその訓読みは「マレビト」つまり稀なる人ですから、殊更に忌み慎む言葉でも無いかなとも思うのです。

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そんなご奉仕の日々を送る中、九州より私を訪ねてマレビトが参りました。

去年久留米駐屯地で寝食を共にし訓練を受けた予備自衛官仲間で、佐賀県武雄市から夫婦でお越しになりました。

帝国陸軍歩兵第七連隊の石碑でツーショットは、予備とはいえ国防を担う後輩として誇らしく思います。

大きな荷物から出てきた沢山のご奉納の品々はその後の酒肴となり、参籠の夜は大いに盛り上がりました。

神仏混淆の名残多い山岳信仰の山ですが、お寺ではありませんので存分に頂戴しました。これもまた大神様の御恵みと嬉しく喜ばしきことです。

古い時代に客人はマレビトであり、またそのマレビトは来訪神として歓迎されました。もてなす我々は恵みをもたらしたマレビトに感謝し共に食事を楽しみ、そして一夜の床を用意してお休み頂き、無事に送り返すのです。信仰的にはここでマレビトは居心地よくもてなしながらも長居させることなくお帰り頂くというところが、神社における祭礼のプロセスとお客様への対応がリンクしており趣深いなと思います。

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夏山の奉仕もお盆が過ぎると折り返し地点となり、あと半分になりました。一時下山で何日間かリフレッシュの時間も頂きますが、またそのうちにマレなる人が頂上に現れて良い風を吹かせてお帰りになるのをお待ちしております。とはいえ、稀なるはずがちょくちょくとなると有り難みが薄れますので、その辺の機微は空気を読んでいただいて、換気はほどほどにして欲しいなどと戯言で本稿締めさせて頂きます。

命を救う、その努力と祈り

命には限りがあり、それ故に尊いのです。悲しいですが、愛する人も勿論、自分自身もいつかは生を終えるのです。

それであればこそ、今を大事に精一杯生きることが大切なのだと思います。

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私は東日本大震災を契機として神社本庁を退官し、神社での奉務の傍ら軍事訓練を重ね陸上自衛隊予備自衛官に任官しました。

併せて一次救命に関わるスキルを求めました。私は戦場で銃を持って戦う兵隊ですが、メディックとしても動けるように赤十字救急法救急員・応急手当普及員・水難学会指導員、そして防災士の資格を持っています。有事は勿論、災害時や日常の中においても守る力を私は希求しているのです。それは私を守ってくれた父祖や郷土の先輩方と同じ役割を果たせるようにです。祖父は陸軍少尉として終戦を迎え、また祖父の伯父は陸軍中将でしたので、幼い頃より感じるところがありました。

今では講師として一次救命を指導することもあります。実際に年に一度は救護する現場に居合わせていました。その度に人を救える力を嬉しく、誇りに思っていました。しかしながら、今回までは心肺蘇生を施すことはありませんでした。

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(頂上付近から警戒監視中に撮影されたものを提供して頂きました)

標高3000メートルを越す立山主峰の雄山、その頂上よりあと100メートルもないであろう三の越と呼ばれる場所。そこで60代の女性が心肺停止状態で救助を待っていると連絡が社務所に届いたのは朝の6時半でした。朝食を摂っていた私は、その報を聞くやいなや宮司と共にはじかれるように現場へ急行しました。

山の薄い空気も、山頂勤務が一ヶ月を超えた私にとって下界と変わらぬ働きができ、自分でも驚くほど冷静に対処することができました。周囲の確認、関係者の健康状態や精神面のケア、日々訓練で重ねたこと全てを行うことができました。

しかし到着時に既に30分が経過しており、懸命に心肺蘇生を行いましたが還すことが叶いません。山岳警備隊が到着した後もヘリコプターが来るまで共同して救命に尽くしましたが、力が及びませんでした。祈りながら、また周りの方々に祈りを促しながら、絶望的な状況を分析しつつ、しかし一縷の望みを託して精一杯尽くしました。天理人道の文字が頭の中を巡ります。立山の神は何をお考えかと。

 

社務所に戻り、その時点で死穢に触れたわけではありませんでしたが、気枯れに接しましたので潔斎し祓を受け、当日は社殿での神事の奉仕を控えさせて頂きました。

翌日の新聞に訃報が掲載されていたことを後日教えてもらいました。甲斐無き事にまことに残念に思います。もしも、もっと早く頂上に連絡が来ていたらまた違った結果になったのではないかと思いながら、私に出来ることの最善を尽くせるようにまた修練して行きたいと決意を新たにしました。

 

亡くなられた方の御霊が安からんことを祈り、そしてまた今日も沢山の方々の立山登拝をお祝い申し上げます。

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私は神主として奉仕しなければなりませんが、神事に携われない触穢に遭うこととなっても目の前の人を助けたいです。もしまたその時が来たら、それは大神様のお導きによるものと思います。

令和も霊山修行

毎年夏は日本三霊山立山にいます。主峰の雄山頂上にある雄山神社峰本社で助勤奉仕しています。今年から糸島市消防団操法大会が隔年開催に変更され、いつもなら7月の下旬から山籠りでしたが、今年は開山前の6月下旬からご奉仕しております。

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頂上では日の出と共に神様にお食事をお供えする日供祭を執り行いますので、それに合わせて起床となります。7月は4時半頃ですが、だんだんに遅くなっていきます。雨で登拝する方もいない時は、6時に起床です。夜は消灯が9時なのでその時はゆっくりできます。

日の出、御来光に間に合うように未明から出発し登拝する方々は頂上参拝の受付をして登山安全・身体健全のご祈願をお受け頂きます。

週末や夏休みシーズンになると朝から多くの人で頂上は賑わい、多い日には1000人以上の方が来られます。7〜9月の3ヶ月間のみ、麓にある2社の雄山神社の神主とその他助勤奉仕の神主が頂上峰本社でご奉仕となります。毎年3万人を超える方々に登山安全のご祈願を奉仕します。

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山の気温は7月で平気8度ほどです。8月には気温が上がりますが、短い夏が終わり秋が来たと思う頃の9月には雪が降り始めます。そうした事から頂上ではストーブが必須となっています。暖をとるのは勿論ですが、煮炊きの為にも使用しています。

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ライフラインである電気は発電機を用い、ガスはプロパンガスがあるので使用できます。一番大変なのは水で、基本的に雨水を貯めて普段使用しています。その為、晴天が続くと水が不足して苦労します。神明に奉仕する者として、身を綺麗にすることに気を使っていますが、風呂はなくシャワーを週に2度浴びる程度です。従って洗面器にお湯を張って体を拭いて清めています。山の上での生活はさほど汗を掻くことはありません。神社でなければ3〜4日お風呂に入らなくても特に苦にはならないと思います。

携帯電話の電波は年を追うごとに良くなっていて、場所によっては繋がります(笑)

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私は今年で7度目のご奉仕で、夏は山にいることがライフスタイルの一部になっています。初めてご奉仕した時は20歳になる年でした。それ以来毎年夏になると立山に行きたくなっていましたが、何度か遊びに行くことはできても、なかなかご奉仕の機会は得られませんでした。

そうした思いがある中、大学卒業後に奉職した神社本庁を6年で退官し、再び立山奉仕が叶いました。地元に戻って神社を引継ぎ、陸上自衛隊で訓練を受けて予備自衛官になり、観光の仕事や講師の仕事をしながら、毎年夏は立山にいます。

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出来るならば、地元の糸島を離れることなく神明奉仕に勤しむことが私の願いですが、自社のみでは生活する基盤にはなり得ません。お蔭様で神社以外の副業で収入を得ていますが、家族6人を支える年収には程遠いです。こうして立山でご奉仕させて頂くことで家族の生活がギリギリ維持できています。糸島で活動が出来るのも立山の大神様の御恵みによるものと感謝しています。

平成30年の1月に糸島市議会議員選挙に出馬した際に人生で初めて多額の借金を作り、落選した後はとにかく返済が人生の最優先事項になっています。敗戦処理がまだ続いているという状況で、地元の活動の為に仕事を断りながらでもどうにか継続しておりますが、以前よりも制限されている現状にお叱りを受けることもあります。苦しい思いがあるものの、自ら手を挙げ挑んだ選挙に応援してくださり、今も尚支援してくださっている方々の付託に応えられていない自分が不甲斐ないです。

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今はまだ修行半ばにありますが、必ずや地元糸島の為、そして日本の為に立派なはたらきを出来るようにと研鑽を積んでおります。不惑の歳まであと4年となり、それまでに実戦に努めながら世に認められる人材となりたく思います。

 

平成の御代

新たな時代の幕が開けようとしている今日、天皇陛下は譲位に向けた諸祭諸儀式に臨まれました。

憲政史上初となる譲位による御世代わりということで、世間では様々に取りざたされました。当初は生前退位という不敬極まりない言葉が横行し、我が国の歴史文化そして伝統を蔑ろにするかのような一部の論調がメディアに露出する度に憤りました。世界に誇る歴史を、自国を誇りに思えるように嘘でも誇張でもなく事実を伝えることで発信することの大事さを痛感しました。

今回特例法が施行され、明日より新たな元号である令和を冠した時代が到来します。

ついに明日は皇太子殿下が御即位され天皇となる祭祀儀式があり、連綿と続く我が国の揺るがぬ国の形が継承されるのです。神話に始まる我が国の歴史は初代神武天皇より途切れることなく続いており、明日から126代目となる令和の御代がはじまります。

私はこれからも神主として、神様と世の人とを繋げるナカトリモチを続け、これが父祖及び諸先輩から受け継ぐ日本の形であると信念を持って、次の世代に伝えていきます。

我が国を取り巻く環境は依然として厳しく、多くの国民が知るところとなるテレビや新聞等では不当に本邦を貶める論調が跋扈し、他国であれば考えられないような敵対する国からの武器を用いない攻撃を受け続けています。プロパガンダやスパイ行為は邦人の身を危険に晒しています。保守を自認する私にとって安倍晋三政権は大変頼もしい存在でありますが、自由民主党の党是である憲法改正や更には皇室典範及び皇室経済法の改正、日本人になりすまして内部から破壊活動を続けるスパイへの対策や国防の充実は依然として遠いものです。また、人口減少の原因たる少子化並びに超高齢社会の到来は未曾有の危機にあると言えるにも関わらず、じわじわと真綿で締め付けていくように状況は悪化しており、対策は後手後手で長期的な戦略に欠けた政策ばかりと感じています。

地位を得たものは保身に走り、その場限りの政策になりがちであり、力無きものの声は正論であろうとも届かないジレンマです。

昭和に生まれ平成に育った私が令和に何を為すのか。政治は五箇条の御誓文にあり、教育は教育勅語の中にあります。私は中今を生きる日本人として、次の世代にバトンを渡す為に走り続けます。

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何のご縁か、平成最後の日となる今日から北陸を案内しています。平成の締めくくりは石川県におります。そして明日の令和は富山県で過ごすことになります。日本三霊山の白山そして立山のお膝元で新時代の黎明を迎えます。弥栄!

息子に仰天

もういつでも死ねる。だから、毎日頑張って生きられる。

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桜のほころぶ今日は、結婚記念日だからと、仕事の打合せに呉服町まで向かうのを子どもら共々車で送ってもらって、そのまま待ってもらってた。

帰り道でせっかくだからと城下の大濠公園で遊ばせようとしたが下の子二人は調子が悪く妻は病院へ行った。

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仕方なく私と上の子二人で行く。

たくさんの子どもで賑わう遊具コーナーでひとしきり遊んで、歩いてすぐの桜祭りの会場に向かった。少しであるがこづかいを渡して、子らは屋台で好きなものを買うことができ喜んでいた。私はタピオカは味がしないと知った。ドリンクが無くなる前に吸い尽くさないと微妙なことになってしまう。

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そのまま石垣沿いの桜を眺めながら護国神社へ。せっかくなのでお参りした。

ふと英霊の遺書の掲示に目をやると糸島の人だった。26歳の青年は最期に母親へ言葉を遺したのだ。読み上げると、春から小学二年生になる娘はなんとなく理解したようで、その成長に驚いた。

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5歳になったばかりの息子はどこかへ行きたがるが、ちゃんと説明したら段々にわかったようで泣きそうになっている。死ぬときは血がたくさん出るの、目も飛び出すの、と物騒なことを聞く。いちいちそうだと答えて、パパもみんなを守る為に戦って死ぬことになるかもしれないと伝えた。怖がらせてしまったと思ったが、息子の言葉に仰天した。

 


そしたらぼくが次に戦う

 


みんなを守れる男に育って欲しいと願ってきたが、こんなに早く自分が追い越されるとは。

もういつ死んでも差し支えないが、もう暫くはこの子らをしっかり守らねばならないと改めて決意した。

護国神社にお参りに行くというのは、こうした自分の気持ちを再確認するということもあるのかも知れない。

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